奥銀谷

小野大橋から下流には、市川右岸に街並みが連なります。そのうち漆谷川から上手が奥銀谷(おくがなや)地区、下手が新町地区です。慶長5(1600)年、江戸時代が始まるころには、市川の谷は寸分の空地を争って人家が建ち商人を連ね、大山師、吹屋、住居、作業場などがありました。奥銀谷は川沿いから下タ町(したまち)、塩ノ町(しおのまち)、上町(うえまち)と三つの街区に分かれます。かつては寺町(現在の奥銀谷小学校グラウンド)もありました。

奥銀谷のお宝

塩ノ町の吹屋跡

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現在の塩ノ町

吹屋とは、鉱山で採掘された鉱石を買吹人(精錬業者)が製錬する場所のことを言う。塩ノ町周辺には吹屋が多数あったと伝えられている。木炭を燃料とし、銅を取ったあとで銀を取る南蛮床という方法で製錬が行われていたという。

淨願寺の鐘楼門

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精巧な美術彫刻を施した端麗な楼門。嘉永2(1849)年築造。看流山の扁額は当時の代官勝田次郎の筆で、額裏銘記には麗澤館含章とある。また、「南豊講之内」として含章に南豊儒学を学んだ人たちの姓名が列記され、儒学の講場であったことがうかがわれる。

旧奥銀谷小学校

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明治7(1874)年4月、奥銀谷町字倉屋敷の官有米蔵を校舎として創立。現在の校舎は5代目となり135年の歴史を誇っていたが、児童数の減少によりやむなく平成21(2009)年3月をもって閉校となった。約6,000名を超える卒業生が巣立った。平成29(2017)年4月からはワールドウォーターバッグ株式会社福祉工場朝来として活用されている。

汰り場(ゆりば)跡

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市川の川床にある。江戸時代の中頃以降、流れ出た鉱石や山師が捨てた石・砂から、汰り鉢を使って銀などを選別し採取した穴の跡。

鉱山従事者の家族の女性に限り代官所に許可され、採取した銀などを吹屋に売って収入としていた。

その他の施設