小野(この)地区は、生野銀山とともに栄え、かつては相沢町、大野町、川原町、夕瀬町など数多くの地名があり、地区住民の9割が鉱山とかかわりのある暮らしをしていました。現在では昔の面影もなく、お年寄りの記憶のみが頼りの状態です。また、小野大橋付近は当時も今も「盆おどり」の中心地です。
小野のお宝
史跡生野銀山
生野銀山の発見は大同2(807)年といわれる。その後、室町年間の天文11(1542)年には山名祐豊(すけとよ)により銀鉱脈の本格的な採掘が始まる。織田、豊臣、徳川の各氏は生野を直轄地とし、重要な財源となった。
明治元(1868)年政府直轄鉱山となり、フランス人技師ジャン・フランソワ・コワニエが着任。軌道や巻き揚げ機の新設等数々の先進的施策により目覚ましい近代化を成し遂げた。明治22(1889)年、宮内庁御料局の所管に移され皇室財産に。次いで明治29(1896)年には三菱合資会社に払い下げられ、以降国内有数の大鉱山として稼行される。
鉱山は昭和48(1973)年に閉山、長い歴史に幕を閉じた。その間に掘り進んだ坑道の延長は350km、深さは880mの深部にまで達しており、採掘した鉱石の種類は70種類にも及ぶ。
昭和49(1974)年、観光施設史跡・生野銀山として新たなスタートを切る。平成19(2007 )年には開抗1200年を迎えた。同年には経済産業省により近代化産業遺産(「我が国鉱業近代化のモデルとなった生野鉱山などにおける鉱業の歩みを物語る近代化産業遺産群」)の認定を受ける。平成26(2014)年には文化庁により重要文化的景観(「生野鉱山及び鉱山町の文化的景観」)の選定を受ける。そして平成29(2017)年には文化庁により日本遺産(「播但貫く、銀の馬車道 鉱石の道~ 資源大国日本の記憶をたどる73kmの轍 ~」)の選定を受ける。
朝来市指定文化財:金香瀬坑口、生野鉱山正門門柱、見石飾幕、灰吹銀、但馬南鐐、測量器、露天掘り跡、断層と鉱脈、金香瀬のヒカゲツツジ群落
慶寿ひ
永禄10(1567)年に発見された日本最大の鉱脈。自然銀を多く含み、『銀山旧記』には「銀の出るところ土砂のごとし」と記載がある。石見銀山よりの渡来人「慶寿」の名をとって、「慶寿ひ」とした。
菊の御紋入り門柱
明治元(1886)年コワニエにより当時の鉱山本部(太盛)の正門として築造されたもので、鉱山閉山後の昭和52(1977)年現在地に移された。
観音岩
平成20(2008)年7月1日に発見。岩盤の落下防止網の下から顔が浮かび上がった。掘った形跡もなく自然にできた物と考えられ、観音様に似ていることから、観音岩と命名した。
小野入口道しるべ
現在の黒川から丹波市青垣町に通じる道と、白口から神河町作畑に通じる道しるべ。昭和4(1929)年に建柱。同様の道しるべは、新町下箒供養塔の横にもある。
小野庚申堂(宝生院)
地域には11の庚申堂があり、小野の宝生院は修験道の修業の場で、地域住民の心の拠り所である。庚申堂横には六地蔵が祀られている。
熊野神社
大同元(806)年内山寺十二坊の一つ蓮華寺が神社の前身とされ、廃寺後明治5(1872)年、奥銀谷町、小野町、竹原野村、相沢町の氏神として熊野神社に改められる。昭和27(1952)年、内山から現在地に遷宮。
川原町稲荷
正一位稲荷朝来山守大明神。小野のお稲荷さん、川原町稲荷として地域の方の信仰が厚く、毎月18日にお参りをされている。
その他の施設
- マロニエ(ハヤシライス)
- 銀山食堂(うどん)
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銀細工体験工房 マリー(体験)
- 小野町がらり(見学)