地域の西端に位置する新町は奥銀谷地域で最も多くの人口を持つ地区です。
新町の南端、白口川が市川に合流する付近の市川右岸は、峻険な崖が急流に迫り、旧猪野々町と新町や奥銀谷を隔てていました。この下箒(したぼうき)の地には、宝暦年中(1751-1764)に桟道が造られるまで通路がなく、市川を渡って現在の猪野々の地を経由し新町に至る中世以来の道があるのみでした。安永2年(1773)に崖を削り川を埋めて、巾6尺(約1.8m)ほどの新道が築かれ、文政4年(1821)山師(銀山の採鉱請負業者)達が資金を出して大改修して坦直な道になりました。道路は洪水により度々崩壊し、天保4年(1833)にも修築され、明治22年(1889)8月の洪水による決壊を機に御料局の助成を得て更に改修されて漸く安全な道になりました。天保4年の修築の際の「築路供養塔」と明治の改修の際の「修道碑」が路肩に建てられています。


現在、下箒の対岸(市川左岸)には親水公園である「新町河川公園」が整備され、憩いの場となっています。この公園には、2010年に「コワニェ公園」と愛称が付けられました。コワニェとは鉱山技師の名で、生野鉱山の開発のため明治政府により招聘されて、この付近に建てられた洋館に居住していました。
新町、奥銀谷(おくがなや)は天正(1573-1592年)の頃より銀山の隆盛とともに人家が密集し、市川の谷筋を埋め尽くしていました。
江戸期、この地域の市川沿いには20数戸の「吹屋」が軒を並べ、銀を主に銅、鉛などを製錬していました。採鉱の中心地金香瀬山に近いこと、製煉滓の処理に好都合なことから吹屋街を形成したものです。また、市川川床の岩盤には、比重選鉱に用いられたと思われる汰り場(ゆりば)跡の窪みがのこっています。
かつて新町には銀山鎮守の奥山神が祀られ、その宮寺の奥神宮寺がありました。明治の神仏分離令(正しくは、神仏判然令)により、それまで奥山神の本体として祭祀されていた毘沙門天(財宝を守る神とされる)を奥神宮寺へ引き取らせ、奥山神には金山彦(金山毘古)神が勧請されました。その後、奥山神社は明治24年(1891)に現在の地、口銀谷愛宕(現、SUMCO生野工場跡隣接地)に社殿を新築して遷宮し、奥神宮寺は廃寺となりました。
奥神宮寺に遷された毘沙門天は、後に隣接する仙遊寺境内に移建遷座し、更に仙遊寺が廃寺となる(昭和39年/1964年)に及んで同じ新町の本来寺境内に遷されました。
仙遊寺跡は生野町第1保育所拡充新築の用地とされ、保育所はその後奥銀谷幼児センターとなりましたが、奥銀谷小学校の閉校と同時に廃止されました。この幼児センター跡は改修されて「かながせの郷」と命名され、平成22年(2010)5月から奥銀谷地域自治協議会の活動拠点となっています。
奥神宮寺には十六羅漢の石像が建立されていましたが、奥神宮寺の廃寺を機に大用寺(かながせの郷のお隣)に移されて、現在に至っています。