兵庫県中央部に位置する朝来市。天空の城「竹田城」や日本三大ネギ「岩津ネギ」など、歴史と自然あふれるまちです。その南東部に位置するのが奥銀谷地域です。
奥銀谷は日本有数の大鉱山、生野銀山跡を中心とした旧跡が多くあり、黒川渓谷、黒川温泉、魚ヶ滝や白口渓谷、白綾の滝等、自然にも恵まれ、四季折々の草花も多く見ることができます。
一方、奥銀谷地域は鉱山の閉山と高齢化に伴い、急激な人口減少と過疎化に見舞われております。その中で、住民の力による数多くの地域おこしに取り組んでいます。その結果、地域には観光客や移住者に恵まれ、「日本遺産」にも選定され、地域のにぎわいが復活してきています。ぜひ一度奥銀谷地域に足をお運びください。
奥銀谷の地理
奥銀谷は瀬戸内海に注ぐ市川の源流部にあたる地域です。市川を河口からさかのぼると姫路市から神崎郡をまっすぐ北上し朝来市に入ります。市川沿いに国道312号線や播但連絡道路が走っています。市内に入ると川は生野駅付近で東に流れを変えます。それとともに、国道312号線は国道429号線と分岐します。生野駅周辺の口銀谷町は奥銀谷とともに生野銀山を支えた歴史ある町です。口銀谷から市川沿いに429号線を進むと、旧鉱山本部(現三菱マテリアル㈱生野事業所)の工場群があります。その先で市川は白口川と分岐します。分岐点に自然豊かな新町河川公園があります。ここが奥銀谷地域の入り口です。
地域は8つの地区で構成されます。まず、河川公園から市川沿いに新町、奥銀谷、小野の3町が続いています。川沿いの細長い土地に家々が密集しており、鉱山町の風情あふれる街並みが続いています。新町には地域の拠点施設であるかながせの郷が、奥銀谷には地域のシンボル旧奥銀谷小学校(現ワールドウォーターバッグ㈱WWB福祉工場兵庫)が、小野には地域の観光拠点史跡・生野銀山があります。
小野を抜けてさらに市川をさかのぼると鉱山町の街並みから農村風景にがらりと変わります。ここが竹原野地区です。農地とともに福祉施設(いくの喜楽苑)があり、地域の福祉拠点となっています。川の右手の斜面には緑ヶ丘地区があります。ここは元々鉱山の社宅地として開発され、現在も一戸建てが連なる閑静な住宅街です。
竹原野の集落を過ぎると生野ダムがあります。ここは上流の黒川ダムとともに下流部、播磨平野の重要な水がめとなっています。それとともにダムは銀山湖と呼ばれ、釣りや紅葉の名所です。
生野ダムから上流部が黒川地区です。川沿いにの山あいに集落が点在しています。オオサンショウウオが住む清流や黒川温泉などの資源を活かした農村観光に取り組んでいます。地域の最奥部、丹波市および多可町との境にある三国岳が市川の源流です。
地域の入り口である河川公園に戻り、川の分岐点から白口川をさかのぼると猪野々地区があります。ここは元々鉱山の社宅が多数立ち並んでいましたが、現在は市営住宅として再整備され若い住民の多い住宅地です。さらに白口川を奥に行くと白口地区があります。ここは江戸時代に鉱山の中心地として繁栄した地域ですが、現在は人口は減っています。渓谷の自然美の中に鉱山町の遺構を見ることができます。
奥銀谷の歴史
奥銀谷は日本有数の大鉱山「生野銀山」を中心として栄えた歴史ある地域です。
生野で銀が発見されたのは伝説では807(大同2)年と伝えられていますが、本格的に採掘が始まったのは1542(天正11)年です。戦国時代から江戸時代にかけて、山名・織田・豊臣・徳川によって治められ、大量の銀・銅が掘られました。特に小野にある金香瀬(かながせ)坑は江戸期以降、鉱山の中心として栄えました。金香瀬の周辺は鉱山従事者の家や精錬所が密集して立ち並びました。鉱山を管理する代官所のある口銀谷(くちがなや)に対して、奥銀谷(おくがなや)と呼ばれ、ともに栄えました。
明治になると生野鉱山は日本政府のものになり、皇室財産を経て、1896(明治29)年、三菱合資会社に払い下げられました。明治期にはフランスからお雇い外国人が派遣され、近代化が進み、日本の殖産興業のモデルとされました。この時、精錬所建設の資材を運ぶために、姫路の飾磨津から生野を結ぶ49kmの馬車専用道路が築かれました。これは日本初の高速産業道路ともいわれ、「銀の馬車道」の愛称で親しまれています。
生野鉱山は1973(昭和48)年に閉山。閉山時、坑道は総延長350km、地下880mにも達していたといいます。その後、翌74年に金香瀬坑後に観光施設として「史跡・生野銀山」が開業。また、平成に入り、竹原野には特別養護老人ホーム・ケアハウス・グループホームが建てられ、観光と福祉の町として新たなまちづくりが進められています。
2017(平成29)年には「播但貫く、銀の馬車道 鉱石の道」が日本遺産に認定。ますます注目を集めています。